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8月6日、広島出身者として [原爆・ヒロシマ・平和について]

毎年この日になるといろいろな事を思うもので…

広島県人として生まれました。
海軍の町、呉市に生まれ育ったこともあり
幼少から戦争というか原爆に関して
身近に感じることが多かったと思います。

呉は海軍の町、戦時中は地図から消えた町。
通っていた高校からは練兵場、術科学校などが見えました。


本当ならば原爆投下された日に祖母は疎開要員で
広島市内に出掛ける予定、たまたま別の用事で行かれなくて
被爆することはなかったようですが、「たまたま」がなければ…
あ、疎開、わからないかもしれないですね?
焼夷弾など落とされた時、家が密集していると延焼するので
家を間引くというか、壊すことです。


叔母は爆心地にほど近い場所で被爆しています。
叔父と結婚する際には祖父母や私の父など
家族中から反対されたそうです。
子供は本当は欲しかったと思いますが、断念したようです。
その分、私たち甥っ子姪っ子を随分かわいがってくれます。
風化させたくないと思いホームページなど構え
そこに叔母から色々聞いて残したいと思ったのですが
被爆した人たちで作った文集を手渡され
「ここにみんなが書いている事と大差ないから」
そう言って語ろうとしません。
胆石の手術や乳ガンの手術、血圧やいろいろ
病院とはつきあいが長いようです。
いつまでも元気であって欲しいのですが。


小学校の時の宿題で記憶にあるのは
両親や祖父母から、戦争中の事を聞いてきなさいとか
夏休みの教材の中にトビウオの親子のお話があったこと。
夏のある日、子供のトビウオが季節外れの雪に大喜びし
海面を飛び跳ねてはしゃいでいたけれど、それは核の灰。
トビウオの坊やはそんなこと知りません、お母さんも。
間もなく黒い雨が降り始めたのでした。
時間が経つにつれ、トビウオの坊やは元気がなくなってしまう。
死んでしまったのかどうかまでは幼少時の事なので曖昧ですが…


他県に住んで思ったこと。
幼少の頃から当たり前のように向き合ったり感じていたことが
当たり前でなかったこと。

広島と長崎に原爆が投下された時間に
公民館など一斉にサイレンを鳴らします。
8月15日の正午にもです。
1分間のサイレンが鳴り、黙祷できる状況ならしていました。

旦那の転勤で約2年間横浜に住み
その後長男であるため、仕事を辞めて実家の九州に。

横浜ではサイレンを聞いた記憶がありません。
終戦記念日にはなっていたのかな?
8月6日と9日には鳴っていませんでした。

九州(ここは長崎県ではありません)では
9日と15日にはサイレンが鳴ります。

横浜にいた時、コールセンターの仕事をしたのですが
採用後の研修でスピーチとか色々な訓練がある中、
この事を話をしたら驚かれたことを覚えています。

今広島県内の学校でどのような取り組みをしているのか
それは姉や友人に聞いてみないとわかりません。
どんどん風化してしまうのだろうか…


夜中の経管栄養の合間に
ふと思って書いてみました。
どんな形で自分の子供に残せるのかな、なんてね。
りんちゃんがもう少し大きくなったら
夏に実家に帰省し、原爆資料館など連れて行きたいな。
さあ、そろそろ栄養ボトルのお片付け…
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